Uyo.x,x,x

kaabii, segway

250731

 他人の生活感の部分と自分の無関心とを照らして愛だと錯覚して、そこに自分を投げ込んでいる。それをやめようと思う。詳しく説明する。朝まで友人と電話していた。この友人と無意味に長時間通話すると、なぜか終盤に差し掛かったときに、無意味に溌剌とした未来の話をすることが多いのだが、まあそれはどうでもいいとして、他人のことが、というか人間というものが別に好きではない、という話になった。人間が好きとは思わないけど人の差異は面白いし、人の形態も内容も面白いと思う。人間をコンテンツとしてみている、という言い方は不適当で、コンテンツもあるし、形式や質もあるだろう、と思う。人間には生活があって、それは素晴らしいものでもなんでもない。生活に美はない。生活に美はないからこそ、生活を美の領域に搬入しようと図るときにはいちばん美しくないといけない、と考えているために、生活であることを担保として美となす態度に腹が立ち続けているである。人間はコンテンツではない。人間は関係でもない。他人の生活感の部分は、しかしそこに実存していて、それは倫理を持って不可侵領域だとしているのであった。なぜか?

 不可侵領域には無関心にもなるが、しかし一度愛とした場合、その実存それ自体に萌えるのは、自分を投げ込んでいるだけだ、と、思った。メイクを床ですることは、あたしにとってはただの状態の肯定だった。状態を首肯しないこと。友人がたには悪いが(悪い、と思っているのか!)。直観的であることが(私にとっては)肝要だが、それは突発的、あるいは一回性そのものを直観とすることではない。地道の意味が違う。コテンパンにしてからよしそれじゃあ今までと同じことをしよう、と言うのです。マンゴー消えてるんですけど!さっきまでお皿の上にあったのに。あたしですか?食べたの。そうみたいですね。本当に一瞬のことで恐ろしいです。

250517,もしくは16

 北野映画じゃないか、と、星野源「Star」の新曲MVを視聴したさいに思った。佇まいに興味があり、わたしのその焦点とはそれはそのまま存在論への興味、と言い換えていいだろうと思っている。最初のカット、後方から星野に近づき、いくつかの靴が写り、タイトルの"Star"が瞬いたあと、足を2歩ほどステップし、首をわざとらしく傾げるそこが、少し異常だ。靴が短く映るだけでははまだ顔がみえないため人物の同定ができない。星野源の曲のタイトルはどんどん普通名詞になっていくが、歌詞もそうだ。聞き馴染みのない熟語はあれど、それの構成はそれぞれ普通名詞に近い。どぎつい。短絡化かつ戯画化とは常にわたしの悪い癖だが、それらは名前への内省そのものでもあると感じる。星、野、源。だとしたら私の名前には無駄な画数が多すぎる。

 書くことが残ることは危険なことである(同じように、撮ることもそうだ)。じゃあそれはテクノだよ。うんうん、それもまたテクノだよね。テクノ、いけそうか?(ここでポールへ目配せ!)

 むしろ鈍るのは言語への勘のほうだった。/吐いたのは決定的な出来事のレシートだった。/segno 不遜にもあたしがすべての引導を渡します。 fine

 最近は道場にいる。乾かして笑ってしまいそうになりそうなことが頻繁に起こる。ソリッドでいる佇まいのためには多くのものを抱えて走る必要があるのではないか、その必然性さえも削いでしまえばいけない。きちんと気が狂うほど怒っていることを喉元に突きつけるべきである。しかし!しかし、土俵では別のパラメータで判断が行われている。譲れないのはここだけである。あとはすべて譲る。設営と撤収や精査のそれは締め作業がめんどくさいことと全く同じだと思ってから苦しさではないと気がついた。そう、友人にも同じ言い方をしたが肝要なのは脳の魔改造の仕方だ。あと適当言うやつは許さない。

 あと、今日の夢では五条悟とリチャード・D・ジェームスが最強の双璧ということになっていたのだが(あと後者はめちゃくちゃ日本語がうまかった)、この設定があまりにくだらなすぎて1日中覚えていたし誰にも


話さなかった。人と話したいのではなくただ喋り続けたいという欲求の時がある。私の文章は等比数列に似ている。変化の原因と結果をいちいち覚えてはいられない。だから、書くことが残るのは危険なことである。D.S.

250420

 日付が変わっていないのに日記を執り始めたことは2年前の時点ではあまりなかったように思います、ということを、今日付を確認しながら思い出しました。確証が。石が無いのに転倒する道が見えていて(霧が晴れているという意味です)、では毎度、と思いました。回数が加算されるべき被創作物と、そうでないものがありますよね。ということは日記は、人の形相をかたどるためのまずは腕による、腕の近くにある身体のための、ものであり、次にその他の方々のためのものであったかもしれません。(ここの)日記を書いていない期間の間にベアトリス・ディディエの『日記論』を読み、その時期、それらへの時期に省察を遠く与えました。そこでマルキ・ド・サドをちゃんと読んでみようと思い何冊か文庫を買いましたが公共の場で開くとあまりに場違いで閉じざるをえないということが複数回起こったためなるほどそのような、と思い手をつけられていません。しかし(直前の文にこれはかかっていません)それに限らず端的に過去から残って文脈に残っているものたちの効力へ希望を、と今日日曜美術館ヒルマ・アフ・クリント展特集を見ながら思っていました [ 暴力をその身にひしと受けた身体] 。現地の操作そのものの遊戯性に重点を置くことは、むしろ同時代において無批判的にはたらくこと、でもあるのかもしれません、と。あの時の射程は現在時空(僭越)にインストール(業界用語)することが肝要だとしていましたが、見通し、の展望であったかもしれません。壁がむしろ、[石が重力に抗して天に聳えるゴシック建築は、それが一瞬で頽れる姿を想像するのではないでしょうか] ホワイトキューブやあの想いやすい立方体としての部屋は、その壁がすぐにパタンと外に、展開図のように倒れることの希望的前提によってああ想像されていたのではなかったでしょうか......そこに広がっているのは野であり、または。

石が無いのに転倒する道というのはあります。これは落とし穴とは違います。

落とし穴には、落ちた方がいいと思います。

 

『……「したがって積んだ石などひとつも残っていない」。石のイメージ。有産階級の市民にとって確実な投資とは石であり、堅実な投資とは不動産である。』

『Verba volant, scripta msnent 言葉は消えてしまうが書いたものは残る...瞬間の変わりやすさを越えて、ことに救出しなければならないのは、自我という非常に重要な資本である。』

 

キリスト教個人主義と資本主義、19世紀の初めにこの三つの要因が出会ってこそ、日記の芳醇があった』

『自己がその拡がりを見出すのは自分の殻に閉じ込り、社会にたいして距離をとるときのみなのである。最も内的で最も私的な人間とは、私生活における人間である。逆に、政治的人間とは、すなわち外的人間であり、分散型人間なのだ。』

 

……完全な黙読は、日記自体と同じく、資本主義的産業社会の成立と符号する。そして日記は黙読がおこなわれる地域と時代だけに成立するのである』

『かくも支離滅裂で、種々雑多な日記が、その統一性を見出すのはここにおいて、なのである。このつきまとって離れない「私」が、規則を知らないジャンルがもつ、唯一の規則であるようにおもわれる。』

 

ベアトリス・ディディエ『日記論』, p.61, p.64, p.71, p.76, p.181, p.196

240822

 それとわたしの間には非対称性がある。そのことを考えるたびに最初は混乱し、ある種の迎合をし、だけどまあ穏当に"そうではない”と思えてきた。(これらが、これらの憧憬がいつからかは不明だ)どう生きたら、後年のわたしがそれを善しとするかを考える。今まではそうやってきたし、今までの選択は(狭い狭い視野ながら)資格を奪取することばかりを考えてきていたような気がする。頭のなかで話しているときのほうがうまく話せる。どうにも文字をあらわすのは不便である。技術など持ってはいないが、確信はある。技術が欲しいのか?否、確信された技術、保証された技術はやはりなにがしかへの志向性と保身を持つしかなく、そう、ただ無闇に保証されたいわけではない。保証されたいわけではない。ただし、保証と一抹外れたところに、赦しに似たものはある。そのことはどうしても、憎む気にもなれないし、どうしても愛してしまうと思う。

 無様に終わりたい。無様さは胡乱さであって、滑稽で、どうしても幼稚で、だけど根源的だと思う。(いつから、またはなにが原因かはわからない。身近にあったとも思えないし。/、諦念の土台を共有され、しかしその前提からサバイブの手法ではなくて逃走を選んでしまったのだ。ただ、最近急によく思い出すのは、わたしが幼い頃に死んでしまった祖父のことで、祖父になにを教えられたのか、なにを祖父が話していたのかは一切覚えていないのだが(アイスの実ガリガリくんを病院の近くのコンビニで買ってくれた)、なぜか、心当たりがある。今度、祖母か母に聞いてみようと思っている。)ノスタルジーとも違う。ひと昔前は踵を返すことがものすごく好ましくて、背中を見るたびに泣くなどしていたのだが、——————————————ではあれは、どのように現実的ではないのだろうか?

 極めて極めて極めて現実的な判断を下していたのはたしか10歳のことである。ぞっとするが、目を伏せていたとしか思えない。その後、なぜか(現実的な判断をしている、というパフォーマンスは残しつつ)胡乱であることを志向しはじめられたのは、うまくいっていたからだろう。当時にも技術などなかった。技術など(いや、あるのだが。どう考えても。)なく、確信と要領だけがあった。誰にも責められない。そもそも、そもそも誰にも判断などされえないのだが。

 お前らは、と思う。もしくは、〈検閲〉がた、と。だとすれば、どう身を振っても悪くないはずである!正直執着をあまり持ち合わせておらず、ハチャメチャに要領を得たいだけだとわかる。打算はものすごく好きだが、駆け引きはかなり苦手である。

240618

 6の倍数の4.1.3で並んでいて美しい日付ですね。ちょうどこの日記を書いてから一年くらい経ちました。ここ三ヶ月はずっと放置していますけど、最近友人がまた日記を始めていて嬉しいです。一年前の自分の日記には照れがあって、それを嚥下するのが重畳でしょう。にしても、癒される場所にしないといけません。

 いくつか終わったことがありました。猜疑はおおかた無駄で、機構のひとつにはなりえはしますが。明快さのためにそれ専用の道路があって(道路や線路の比喩が多いのは、生まれによるものだとしかいいようがありません)、そこには赤いファミリーカーだけが並んでしまうということです。意味が常にある時間は少なく、それよりも反復が並んでいるというか、不毛が連続する必要があります。幾人かが去ったので、もしくは位置する側面を移動したので、キャラクタライズの意味がわかってきました。

 

 「穏当な」。昨日に図書館に行き、マイクロポップの展示記録を読んでいました。キュレーションはただディスクリプション(記録はここで途絶えている)

240513

 プラットフォームに詞をばら撒いたほうがいい。もしくは走らせること。煌きを知っている人, のことだが、しかしそれに関係なく申し訳なかった。愛ではない。遅効していてそれはあまり関係なかった。戯曲に手をつけることができなかった。7日ごとに切り替わる天体が一周するまでが限度だろう。分霊箱モデルはいまだ継続している。しかしそれは弟子の恥ずかしい姿を悪戯に知らせるお師匠さまと同じなのかもしれない。